グイノ神父の説教
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年間第23主日 B年 2009年9月6日
イザヤ書 35章4−7節a ヤコブの手紙 2章1−5節 マルコ福音書 7章31−37節
私達はしばしば神が沈黙を守り、耳が聞こえないと非難します。 しかし神は聖書のあらゆるページで、私達に話しかけられます。 私達の嘆きと人類の叫びをよりよく聞くために、神はイエスを送られました。 そういうわけで、聖書のなかで、失明、難聴、無言症は、神の前での私達の状態を明示しています。 このように、福音の聾唖者は、私達の日常の状況を表しています。 例え私達が、正確に聞き、話すとしても、私達を孤立させ、閉じ込める壁を、自分のうちに持っています。
この聾唖者のように、私達は聴覚の病人です。 私達は、無益な事やつまらないゴシップに、自己満足の耳を貸しますが、私達の助けを求める人達の叫びは、私達の耳に殆ど届きません。 私達を回心させる神の呼びかけに関しては、私達の耳は閉じられたままです。 また奇妙な沈黙が私達をおそいます。 つまり、くだらない事や厄介な事に対しては、言葉がきりなしに溢れますが、誰かを悪い事や不正な事に背を向けさせる必要がある時、失語症にかかります。 信仰を証するとき、私達は黙ってしまうか、みじめに、口ごもるだけです。
聖書全体で、神が人間と意志を疎通させたいと望まれる時、何時も,砂漠とか離れたところへ人を引き寄せます。 群集や喧騒から離れると、神の言われるのを聞いたり、心を神に開いたりするのが易しくなります。このように、イエスは自分が誰であるかを分からせるために、聾唖者を遠く離れた所に連れて行きます。 イエスは神の業を完成するために遣わされましたが、群集はそれを認めるところまで達していません。 神はイエスによって、その失明から、難聴から、麻痺から、伝達の困難から人を解放されます。 イエスのされる癒しは、人々の悲惨さに対する即座の解決ではありませんが、神が人間を解放されるという印です。
聾唖者のまえで、何も言わずに、イエスは様々な動作を行なわれます。 「天を仰いで」はそれを行なわれる方である神の御名とご自分の一致を言い表しています。 彼が「深く息をつかれた」のは、うめき声で、この聾唖者の苦悩を分かち合うイエスを指し示しています。 イエスはこの人の閉じられた耳に指を差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられます。(当時、人は唾には治癒の力があると信じていました) これらの行い全ては、なんと人間性に溢れている事でしょう! 様々な印によってしか自分の考えを述べることが出来ない人にイエスは適応されたのです。 イエスの様々な行いは、神の恵みを与える感知できる印である教会の秘跡を、既に予告しています。 最後にイエスはアラマイ語で、「開け」と言われます。 この開けと言う命令は、舌や耳に言われたのではなく、聾唖者自身に言われました。 したがって、彼を縛っていたものは全て、ほどかれ、彼は再び自由な人になります。
イエスを信じている人の口から、神への賛美と栄光を讃える言葉、人々の尊敬を表明する言葉が出なければなりません。 聖霊のつぶやきに気をつけるキリスト者は、彼に何事かを要求する人に答える事ができなければなりません。 あるプロテスタントの牧師、ドクター・ボンフェッファーは「私達が第一にしなければならない勤めは、先ず聞くことです。 兄弟の言う事を聞く事さえ知らない者は、いつか神の言われる事も聞く力がないでしょう。 彼はいつも一人でしゃべるだけです。 たとえ主にむかっても・・・」といいました。 ですからソロモンの知恵を持ちましょう。 神に「聞き分ける心をお与えください」(列王T3,9)と願いましょう。 絶えず、詩篇の「神よ、私の口を開いてください。 私はあなたに賛美を捧げます」(51.17)を繰り返し言いましょう。 自分自身に閉じこもらない様にしましょう。 むしろ私達の神の子としての品位と一致した態度を保つように努めましょう。 私達が兄弟に対する同情と公正さに開かれているように・・・たとえ様のない栄光、限りない賛美を神の帰するように・・・ アーメン。
年間24主日 B年 2009年9月13日
イザヤ書 50章5−9節 ヤコブの手紙 2章14−18節 マルコ 8章27−35節
ヨルダン川が生じるヘルモン山のふもとでは、景色が素晴しく、果物や野菜は溢れるほど採れます。 ここで、領主ヘロデ・フィリップは新しいローマ皇帝ティベリウス皇帝にささげるために町を構築しました。ローマ文明の贅沢さはあらゆるところに広がっていました。 さて、このヨルダン河の源泉の近くで、イエスはご自分の洗礼について思い出され、洗礼者ヨハネの殺害と自分自身の受難についても深く考えられました。
イエスの誕生の何世紀も前に、イザヤ預言者は救い主の到来を告げていました。 彼はそれを「苦しむ僕」と名付け、救い主の受難について細かく述べていました。 ペトロは勿論このイザヤ書を良く知っていましたが、それはキリストに全く関係がないと確信していました。 そこでイエスが、人々が自分についてどう考えているかを訊ねた時、ペトロは素晴しい信仰宣言をしました。 唯、イエスは彼の答えを褒める事もなく、他の弟子たちが繰り返して言った「うわさ」についても何も言われません。 むしろ、イエスは彼らの思い込んでいる幻想を取り除くために、ご自分の身近な受難について手短に告げられます。 ショックを受けたペトロは、イエスを皆から離れたところへ連れて行って、厳しく咎めます。 イエスの抗弁は「サタン、後ろにさがれ! お前は神の計画を少しも理解していない」という辛らつなものです。
しかし、すべての弟子はペトロのように考えています。 大失敗を告げることで、新しい弟子を引き寄せたり、既にイエスに従っている人の熱意と信頼を増やしたりする事は出来ません。 そういう訳で、イエスは告げた事をもっとはっきりと教えられます。 ただイエスご自身だけが苦しむのではなく、すべての弟子たちも、自分の十字架を背負って、苦しまなければなりません。 イエスははっきりとした曖昧さのない結論を引き出されます。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音の為に命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8章35節)と。 私達は皆この言葉に関わりがあります!
マルコはローマで迫害された信徒のために、自分の福音を書きました。 信徒の上に理由なしに注がれる妬みと暴力に信徒たちが困惑していることをマルコは知っていました。 マルコはまた、イエスの弟子はすべて、早かれ遅かれイエスの受難に参与する事を思い出させようとしました。 マルコは周りの人々の悪意に直面してパニックになっている信徒達を励まします。 そして安易なキリスト教的生き方の幻想をすべて取り上げたいのです。
私達も信徒であると言う事実が、人々の尊敬を引き寄せると考えてはなりません。 今日でも、キリスト者は世界中のいたるところで迫害されています。 簡単に神を要らないとする世界で、自分の信仰と希望を強め、キリストに忠実である事は易しくありません。 最後までイエスに従う人は、どんな姿をしているか分からない苦しみに、いつか出会います。 世を救うキリストと一致したキリスト者は、十字架への狭い道を避けることは出来ません。 しかし、キリスト者の苦しみは実を結ばないことは絶対にありません。 むしろそれは、永遠の中に世界を移すのに必要な手段となる、「てこ」のようなものです。
「私達の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロ3章3,4節)「私達は、自分が死から命へと移った事を知っています」(Tヨハネの手紙3章14節)から、キリストの協力者となるために、聖霊で満たされ、神に近い者とされました。 ですから私達は救いと命の泉となっています。 私達が決して忘れてはならないことは、復活の力が絶えず効果的に、私達のうちに、働いている事です。 同様に、キリストの体を拝領する事はすべて、試練と苦しみの時の、効果的な助けです。 私達は苦しんでいるキリストとしっかり一致しなければなりません。 何故なら、私達が生き、苦しみに耐えることは、全部世の救いのために肝心な事だからです。 教会はこれを「聖徒の交わりの神秘」と呼んでいます。 聖パウロはもっと簡単に、「私達は生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。 死ぬはずのこの身に、イエスの命が現れるために。 こうして、私達のうちには、死が働き、あなた方に内には命が働いている事になります」(2コリント4章11,12節)と言っています。 ですからこの確信を土台にして、神に自分の命を捧げましょう。 アーメン。
年間第25主日 B年 2009年9月20日
知恵の書 2章12−20節 ヤコブの手紙 3章16節―4章3節 マルコ 9章30−37節
イエスはご自分が敵の手に引き渡されるエルサレムにむかって、断固とした足取りで歩いていきます。彼はまた新たにご自分の受難を告げられたばかりです。 使徒たちは黙っています。 以前にペトロに言われた厳しい叱責を、なかなか受けいれられませんでした。 疑いもなく、聞いたばかりの事柄におびえて、彼らは決して聞きたくなかったことを理解しないほうが良いと思いました。 そこで、イエスの言葉をまったく気にしないで、彼らの個人的な野望について話します。 彼らの内で誰が一番偉大か?と。
使徒である事の難しさはマルコの好むテーマの一つです。 使徒たちのイメージを、その美化から遠く隔たって、私達に類似しているものとして、つまり野心的で、壊れやすく、臆病で、落胆し、偏狭で、喧嘩速い人達としてマルコは表現しています。 初代教会の共同体の中のいたるところで出会うものを、マルコは使徒たちを通して描きます。 残念な事に、この状況はまだずっと続いています。 この種の状況を変えるために、マルコは幼子を腕に抱きしめるイエスを私達に示します。 イエスはこの子供を自尊心や支配力の野心の解毒剤として示します。 イエスのまわりで最も良い地位を求めて言い争う使徒たちに、イエスは、ユダヤの伝統が大人の社会がら締め出している子供を、眺めるように招きます。
幼子は身を守るすべを持たず、壊れやすい小さい者や、発言権を持たない貧しい人達の象徴です。 イエスやマルコ自身の目に、偉大なものとは、他の人に仕える者のことです。 キリスト者の偉大さは、最も小さい者や最も貧しい者に対してする奉仕の資質で測られます。 ヤコブは自分の手紙の中で、同じ教えを繰り返し、「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです」(ヤコブ3章16節)と付け加えています。 イエスにとって偉大なものとは、他の人の偉大さを認める事が出来る人のことです。 そしてまたイエスご自身のように、全ての人の中で「給仕するもの」(ルカ22章27節)となるのを選ぶ人です。
聖ヤコブの手紙と聖ヨハネの福音の洗足の箇所は、初代教会のキリスト者たちが、この教訓を得るには程遠かった事を示しています。 疑いもなく、自尊心は人間の心の中の最も強い*欲動です。 この支配欲は全ての人に影響を与えます。 これを制御できない時、どんな結果を生むか、第一朗読がその悪影響を描いています。 「神に従う人は邪魔だから、騙して陥れよう。 我々のする事に反対する。・・・暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。・・・彼を不名誉な死に追いやろう・・・」(知恵の書2章12,19、20節)
支配するためには他の人を砕かなければなりません。 第一番になるには、他の人を下の地位に置かなければなりません。 残念ながら、これは、何百万もの犠牲者を作り出す、私達の世界のきまりです。 だから、イエスはご自分が自由に死に引き渡されると告げられながら、この根本的な真理を私達に分からせようと試みます。 人間を現すものは、人が手に入れるものによるのではなく、人が与えるものによります。 世界の様相を変えるものは、強者の掟ではなく、分かち合い、赦し、尊敬、与えられた命です。
「いちばん先になりたい者は、全ての人の後になるように!」 キリストの言葉の意味について間違えないようにしましょう。 人々の前でぺこぺこする信徒の問題ではありません。 この不健全な態度は確かに謙遜ではありません。 謙遜とは私達が他の人と似通っているのを認めることです。 しかし、そこにある相違は、私達がイエスを信じていて、神と共に永遠に生きるように呼ばれている事です。 その上、私達のあらゆる罪にも拘らず、私達が小さい子供のように神に愛されているのを知っている事です。 これこそ、私達の偉大さと喜びを作り上げているものです。 アーメン。
*欲動 人間を行動にかりたてる内在的な力。 食欲、性欲、睡眠、排泄欲など。
年間第26主日 B年 2009年9月27日
民数記 11章25−29節 ヤコブの手紙 5章1−6節 マルコ 9章38−43,45,47−48節
今日、マルコはイエスが寛大である事を私達に先ず示します。 というのは、善が何処から来ようともイエスは善を認めているからです。 続いてマルコは、コップ一杯の水を必要としている人に与えるように、イエスはまた、良い忠告を与えると教えています。 最後に、他の人々に悪いことの出来るものすべてに対して、また躓きを与えるすべてのものに対して、イエスは厳しく、情け容赦がないということをマルコは表します。 実際、マルコは日常生活の現場を私達に見せています。 嫉妬、利己主義、傲慢、軽蔑、醜聞などは、人生のあらゆる時に、どんな社会の中にでも湧き出ようと、人間の心でとぐろを巻いています。 この問題はヤコブの手紙の全体にわたって、繰り返し取り上げられています。 私達の皮膚に張り付いているこれらの悪徳を捨て去るのは、難しいです。 悪徳から離れるのは一つの損、一つの切断として感じられるからです。 片方の手、片方の足を自分で切ったり、または片方の目を無理にむしり取ることについてのイエスの言葉は、これを意味しています。
第一朗読は予定された場所以外で預言し始めた二人の人を私達に語っています。 ヨシュアは憤慨しますが、モーセはこれらの事をそんな風には見ません。 彼はイスラエルの民、皆が預言者の民となるのを見ると言う、自分の望みを知らせようとします。 何世紀も経ってから、ヨハネは使徒でさえないのにイエスの名によって悪霊を追い出している人達のことを、イエスに告げ口します。 イエスの答えは素早く、確実で、「止めさせてはならない。 私の名を使って奇跡を行い、その直ぐ後で、私の悪口を言えまい。」というものです。 イエスは善を行なう人達に対して開かれています。 イエスにとって大切な事とは、実現された善で、それを行なう人ではありません。
預言者ヨエルは神はすべての人に霊を注ぐ(ヨエル3章1節)と預言し、聖パウロは「神はすべての人々が救われて、真理を知るようになる事を望んでおられます」(Tテモテ2章4節)と教えています。 今日の朗読の箇所は聖霊があらゆる所で、差別することなく、人類全体の中で働く事を繰り返して言っています。 キリスト者は隣人愛も、真理も、聖性も独占していません。 神はすべての人間を集め、彼らをご自分の命で満たしたいと望まれます。 というのは、神の愛は普遍的だからです。 もし私たちがこの愛である神に賛成であろうと望むなら、神について持っている私達の考えを訂正しなければなりません。 私達はまた、偏見と批判と嫉妬の根を切り取って、私達の周りにいる人々への眼差しを、変えなければなりません。
イエスによって求められるこの開かれた精神を、他の人に差し出された一杯のコップの水の美しいイメージが説明しています。 そこで、イエスはもてなしを新しい要素で豊かにします。 私達は他の人を、イエスご自身を受け入れるかのように、もてなさなければなりません。 これこそイエスが私達に下さる良い知らせです。 必要としている人に、キリストを思いながら、一杯のコップの水を与えることの出来る人達は、神に対して行い、これこそ、永遠の命に参加させる行いです。 それが分かったら、喜びましょう。 しかし次の事を忘れないようにしましょう。 つまり、自分の中に根付いているすべての悪を切り取り、抜き取る事を・・・
もし、イエスが言われるように、「私達に逆らわない者は、私達の味方」であるなら、もし聖霊が皆の上に注がれるのなら、教会は何の役に立つのでしょうか? キリスト者であることは何の役に立つのでしょうか? まさにその事を宣言するためです。 私達が集まるのは、神の愛がすべての人に与えられている事を祝い、宣言するためです。 キリスト者としての私達の特徴は、真理を保持することではなく、真理はキリストの愛と眼差しをもって、すべての人のうちに、捜し求め、発見するものであることを、至るところで、宣言することです。 他の人をよそに置いたり、兄弟関係を断ち切ったりすることは、神との関係を断ち切ることです。 そして神との関係を断ち切ることは、命を断ち切ることです。 ですから、聖霊ご自身のように受け入れの精神を広く持ちましょう。 アーメン。
年間第27主日 B年 2009年10月4日
創世記 2章18−24節 ヘブライ人への手紙 2章9−11節 マルコ 10章2−16節
創世記の最初のページからマルコの簡単な話まで、夫婦の生活は長い道のりを歩んでいました。 「あなたは私の肉の肉」と言う喜びの叫びで溢れ出た最初の愛のうっとりとした状態は、「夫が妻を離縁する事ができるか?」という法律一点張りの質問表に変わってしまいます。
神も、モーセも決して離婚に関する律法を与えませんでした。 モーセはただ夫に、「妻に何か恥ずべき事を見出した時は」(申命記24章1節)妻と別れる事を許可します。 しかし、この何か恥ずべきこととは何でしょうか? ラビ・シャマイによれば、姦通のような重大な過ちに関わる事です。 しかしラビ・ヒレルの意見では、料理を焦がしてしまったというようなことが、離婚の口実となりました。 (ヒレルは聖パウロが後に弟子となった有名なラビ・ガマリエル(使徒言行録22章3節)のおじいさんです) これらの二人のラビはお互いに宿敵で、ヘロデ王の時代にエルサレムに住んでいました。 イエスは疑いもなく12歳のあの日に、神殿で彼らに出会っていたに違いありません。 彼は彼らの教えを良く知っていました。
さて、罠はイエスに仕掛けられて、もしモーセに反論すれば、必然的に、二人の有名なラビの教えに同じ反論の一撃を与える事になるように仕向けています。 イエスは預言者たちがしたように答えます。 イエスは神の意向を思い出し、律法を自分たちの利益に都合よくごまかす人々を暴きます。 このように、神ご自身の愛のご計画に基づいて、イエスはファリサイ人の罠を避けます。 男の人だけでなく、女の人も、世の始まりの時から、神が望まれた忠実と一致の内に生きなければなりません。 イエスは条件なしの赦しを求められます。 モーセは私達の心の頑固さの故に、離婚を許したと、イエスは説明されます。 マルコが使っているギリシャ語「スクレロカルディア」は心の硬化症のことで、イエスの言いたかった事を良く説明しています。 私達は石の心を持つためではなく、神のイメージであるように愛のために、男女に造られました。 神は、ご自分との親密さの内に、永遠に生きるように私達を招いていられますから、私達の愛は神の愛のように忠実で、憐れみ深いものでなければなりません。 三位一体の神に似るものとして、私達の愛もまた一致の要素でなければなりません。
マルコはローマで福音を書きました。 ローマ法では女の人に離婚の発議権が許されていることをマルコは知っていました。 そういうわけで、マルコは二つの句に別けて、男の人に対しては女の人と、女の人に対しては男の人との同じ忠実さが要求されることを、キリストの口を通して語っています。 「人が独りでいるのは良くない」(創世紀2章18節)と神は言われます。 これは人間が自分だけでやっていけるものではないという意味です。 誰も独りぼっちで幸せではありません。 私達の一人ひとりは、他の人と共に、他の人によって、他の人の為に、生きる事を受け入れる時、本当に存在し始めます。 家族生活や、夫婦の喜びと一致は、私達を愛し、ご自分に似たものとして私達を創造された、神のご計画です。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」(マルコ10章15節)とイエスは今の話しを締めくくって次のように言われます。 子供は夫婦の実りですが、ここでイエスはその子を夫婦の模範とします。 というのは、自発的な子供の心で、夫婦は神に向かなければならないからです。 私達の罪や、不忠実や、忘恩や、モーセが言った「これらの恥ずべき事すべて」にも拘らず、神と私達の縁が切れる事は決してないでしょう。 絶えず繰り返し次のように言わなければなりません;私達のねじれにも拘らず、神は無条件で私達皆を愛されると。 神の内に私達の一致を見出し、赦しの勇気と慈しみの力を頂くように招かれている私達のところへ、神は私達を捜しに来られます。 その時、果てしなく、永遠に愛されている事を知っている子供の信頼を込めて、手を差し伸べて神の方へ走っていきましょう。 アーメン。
年間第28主日 B年 2009年10月11日
知恵の書 7章7−11節 ヘブライ人への手紙 4章12−13節 マルコ10章17−30節
福音の中のこの人を見てください。 私達は彼について何も知りません。 若者でしょうか、それとも老人でしょうか? 彼の名前さえも知りません。 彼について知っている事はただ、「沢山の財産をもっている」ということだけです。 彼は自分のお金の面でしか社会的に存在していません。 イエスに対して尊敬を持って話しかけながら、実際は、永遠の命を得るための良い手を捜しています。 永遠の命を彼は、自分の資本を増やす事のできる富のように見ています。 彼は自分の持ち物に非常に捕らわれていて、彼の言葉の中にそのことは明らかです。 彼は「永遠の命の相続」を望んでいます。
この名前の分からない敬虔なユダヤ人を、イエスはしばらく見つめ,愛されます。 イエスは慈しみと信頼に満ちた眼差しを彼の上に注いで、この無名の人に光を当てます。 イエスは完成に向かって新しい段階に飛躍する時が、この人に来ていることをご存知です。 彼はこの時から、すべてを後に捨てて、信頼をもってイエスに従わなければなりせん。 明確な5つの勧め「行きなさい、売りなさい、与えなさい、来なさい、私に従いなさい」を彼に与えながら、イエスは彼をご自身の完全な選びに呼ばれます。 実際、これは全ての使徒がした根本的な選びです。
この金持ちの人はイエスが正しい事をよく知っていました。 しかし彼の所有する財産は、彼が死後に期待する永遠の命を今、受け取る妨げとなっています。 待つことなく神の国の喜びを与えようと望まれるイエスから、悲しみに沈んで彼は遠ざかります。 彼に注がれたイエスの愛の眼差しを深く感じるだけに、彼はますます悲しくなります。 しかしながら、イエスは彼を引き止めるために何もされません。 この失敗を前にして、一般的に財産についての教えをイエスは使徒たちに与えられます。 それは次のようにまとめられます。 罪はお金や所有するものや財産にはなく、いつも愛の欠如にありますと。
もし、この敬虔なユダヤ人が彼の善意にも拘らず、イエスに従う事にいき着けないとしたら、誰がイエスに従う事が出来るでしょうか? 「神の国に入るのは難しい」とイエスは言われ、「人間に出来る事ではない」とまで付け加えられました。 使徒たちはおびえました。 イエスはすぐに「神は何でもお出来になる」と彼らを安心させ、救いは私たちの行いの結果ではないということを彼らに思い出させました。 救いは私達の行いの結果だと思い込んでいた金持ちの男は、「永遠の命を受け継ぐためには何をすればよいでしょうか?」と訊ねたわけです。 救いは常に頂くべき恵みです。 私達の手柄でもなければ、よい行いでもなく、掟の遵守が私達を救うわけでもありません。 私達は皆、自分の救いに関しては、神に完全に委ねなければなりません。
イエスはわざと、かつて神がアブラハムに呼びかけられたのと同じ言葉を再び取り上げられます。 「神にお出来にならない事はない!」(創18章14節)と言われて、年老いたアブラハムと同じく年を取ったサラに、天の星、海の砂と同じぐらいの数多い子孫を与えると約束されました。 約束で一杯のこの言葉を再び取り上げながら、イエスは不安にかられている弟子たちのために、キリストの言葉を受け入れて、救われる者が数え切れないほど多いことに言及されます。 永遠の命は何かしなければならない事ではなく、神のみ言葉によって導かれ、前進するべき道です。
「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)とイエスが言われた時、私達に不可能な事を求められました。 楽な人生を送り続けながら、永遠の命を望むことは、それは嘘で欺瞞です。 私達の信仰が神を最優先に置き、神を目標に据えるとき、本物です。 イエスのみ言葉は両刃の剣で(ヘブライ人への手紙4章12節)、私達を不必要な余分なものから開放します。 それは私達がイエスの呼びかけに答える事ができるためです。 永遠の命にまでイエスに導かれ、従って行くように、この呼びかけは、神の国の喜びを与えます。 ア−メン。
年間第29主日 B年 2009年10月18日
イザや書 53章10,11節 ヘブライ人への手紙 4章14−16節 マルコ 10章35−45節
イエスはヤコブとヨハネが野望と権力の罠、そして彼らに続いて他の使徒たちも巻き添えになった罠に陥った、お金の危険についての教えをようやく終わったばかりです。 すでに、イエスがご自分の受難について2度目に宣言された時(マルコ9章30−34節)、自分たちのなかで誰が一番偉いかを知るために、使徒たちは口論していました。 受難の3番目の宣言は、今回、イエスの傍の一番良い場所についての嫉妬と切望を産みました。
明らかに、ヤコブとヨハネはイエスがペトロをグループの頭に据えた事を決して認めませんでした。 何故でしょうか? 何故なら彼らの社会的レベルのほうが上だったからです。 ペトロとアンドレはただの漁師として語られていますが、ヤコブとヨハネがゼベダイの息子である事を、マルコは何回も明らかに述べています。 ゼベダイはカファルナウムではよく知られていて、沢山の労働者を雇っている漁業企業のお金持ちの事業主です。(マルコ1章16−20節) 富は一般の人より多くの権利を与えるので、ヤコブとヨハネはペトロよりも自分達が良い地位を得ると思い込んでいました。
彼らがイエスにした答えは、彼らの自慢癖と世間知らずを示していますが、彼らのイエスに対する愛情も表しています。 残念ながら、彼らの良い意向にも拘らず、他の使徒たちと同じ事をするでしょう。 というのは、イエスと共に祈る代わりに眠ってしまい、兵士達がイエスを逮捕する時に逃げてしまうでしょう。 彼らがとても欲しがる名誉のある地位は彼らのためにはないでしょう。 その時(キリストが栄光を受ける時)が来た時、それらの場所を占めるのは、イエスの右と左で釘付けられた二人の強盗でしょう。 実際、この出来事を思い出すと、もし主が私達の望みをすべて字義通りに実現されたなら、私達は誰よりも先ずひどい目にあうに違いありません。
使徒たちはヤコブとヨハネに対して憤慨しました。 疑いもなく、彼らもまた一番良い地位を望んでいたのでしょうか? イエスはこの喧嘩を利用して教育されます。 彼らが誰が一番偉いかを知る為に、口げんかをした時、イエスはご自分が彼らに言われたこと、彼らが理解しなかった事を、違った形で繰り返します。 イエスはあらゆる国、あらゆるグループで、従う人達に命令する事のできる責任をもつ人、リーダーが必要だと認識しています。 しかし使徒たちの間で、そんなふうにではないとイエスは続けて言います。 一番偉大で第一の地位は奉仕することと奴隷のように仕える事で、獲得するものです。 そしてその奉仕は、きちんと選ばれた誰かに対してではなく、皆に対してなのです。
「人の子は仕えられる為ではなく、仕えるために、多くの人の為に身代金として自分の命を与えるために来た」 奉仕は人の本当の偉大さです。 偉くなる事を目的として奉仕する問題ではなく、他の人を偉大にするために仕えるのです。 イエスの全生涯は奉仕です。 聖木曜日の夜、自分の弟子たちの足を洗おうと、彼は奴隷の仕事着を着ます。 ペトロの強烈な反応は、この行いがどれほど屈辱的なものであるかを私達に語ります。 このようにしてイエスは、ヤコブとヨハネのピラミッド型の考え方を、彼らはより低く、そして他の人は上の方にと、どんな風に引っくり返すか、実際に示されます! 命令しようとする欲、自分の考えを押し付けようとする欲に対して、イエスは謙遜、友愛的な奉仕、彼らの命の献身のうちの本当の愛を、使徒たちに勧められます。
イエスは名誉としてではなく、奉仕としての権威の行使を促しています。 それは目だたせる問題ではなく、目立たないようにする問題です。 それは自分のうちにある権力への望みすべてを廃止し、他の人と較べて重要な者と見えたい自分の欲望を捨て去る問題です。 彼らの野心、彼らの愚かな事を清められて、ユダ以外の使徒たちは皆、イエスが要求される事を理解した事でしょう。 こうして、ヤコブは使徒たちのなかで最初の殉教者となり、ヨハネは使徒たちで最後の証し人となることでしょう。 アーメン。
年間第30主日 B年 2009年10月25日
エレミヤ書 31章7−9節 ヘブライ人への手紙 5章1−6節 マルコ 10章46−52節
命の光であるイエスは「月である神の町」と言われているエリコの門に着きます。 そこでは道端に完全な暗闇の中に沈み込んでいるひとりの物乞いが座っていました。 彼はティマイの息子で、盲人ですが、良く聞こえます。 イエスが直ぐ近くにいるのを知って、どうしても光が欲しいという大きな信頼をこめて叫び始めます。 「ダビデの子、イエスよ。 私を憐れんでください。」と。 情け容赦のない群集は、バルティマイを黙らせようとします。 しかし、群集が彼を黙らせようとすればするほど、彼はもっと叫び声を上げます。 イエスは立ち止まって、彼を自分の方へ来させます。 詩篇34の7節には「この貧しい人が呼び求めるたびに、その声を主は聞かれる」と述べられています。
先週イエスは自分が受けなければならない洗礼について話しました。 マルコはバルティマイの話を通して、初代教会の洗礼の儀式を叙述するために、このつながりを使います。 盲人の癒しを詳しく説明しながら、マルコは暗闇から光へ通過させる洗礼の順序を説明します。
洗礼志願者たちがそうであるように、バルティマイは、たとえ彼が今までにイエスの顔を見た事がないにしても、イエスについてのうわさを聞いていました。 感激しやすい改宗者としてティマイの息子には、一つの望みしかありません。 それはキリストの大きな家族の一員となるために、暗闇や孤独から出ることです。 彼の信仰の叫びは何回も繰り返されます。 「ダビデの子、イエスよ。 私を憐れんでください!」と言う叫びは、私達のよく知っている「憐れみの賛歌」のことであり、それは初代教会の典礼の中で既に繰り返されていました。 こういう理由から、バルティマイを黙らせようと空しく努力した群集の態度は、初代教会時代のすべての敵や迫害者の事を私達に思いださせます。
イエスは立ち止まり、「あの男を呼んできなさい」と、彼に近づくように弟子たちを遣わします。 実際、人を立ちあがらせる神の言葉を告げながら、イエスの名において人々に呼びかけるのが、キリスト者の使命です。 マルコはここで特別に復活を指すギリシャ語を使っています。 「エゲイレ」というギリシャ語、つまり、「立ちなさい。目覚めなさい。生き返りなさい。」を弟子たちは盲人に言います。 そこで盲人は飛び上がって、たった一枚の自分を守っていたマントを脱ぎ捨て、同時に自分がもっていた過去のすべてを捨て去りました。 洗礼志願者はこのようにして、サタンと暗闇に繋ぎ止めていた業をしりぞけます。
イエスはバルティマイに洗礼志願者にする質問、「私に何をして欲しいか?」をします。 これはどういう意味かと言うと、「信仰の光を受けたいですか? 洗礼を望みますか?」と言うことです。 盲人は「主よ。見えるようにしてください」と願います。 癒されたバルティマイは、この時からイエスに従って歩みます。 すべての新受洗者のように、彼はキリスト者共同体に受け入れられます。 バルティマイは光の子となりました。
もし、群集がイエスを盲人に光を取り戻す方として認めるなら、私達キリスト者にとって、イエスは命の光です。 ですからイエスの質問「私に何をして欲しいか?」は、私達一人ひとりに出される質問です。 私達は命の光の中で、自分の信仰を十全に生きたいでしょうか? それとも、私達一人ひとりの暗闇の中で、細々と暮らすほうを好むでしょうか?
「安心しなさい。 あなたをお呼びだ。」 イエスの呼びかけに、バルティマイは言葉によってではなく、具体的な行いによって答えます。 何も見ないでバルティマイは、自分が抱いている「盲目的な信頼」にだけ頼って、イエスの方へ走りました。 反対側を見ている私達は、自分の信頼をどこにおいているでしょうか?
イエスは光へ来るように私達を呼びます。 自分のマント、つまり、その背後に隠れて自分を覆い隠そうと努めている言い訳を脱ぎ捨てる準備が整っているでしょうか? 私達の人生の歴史の今日という日に、今、イエスに従う準備が出来ているでしょうか! アーメン。
年間第32主日 B年 2009年11月8日
列王記上 17章10−16節 ヘブライ人への手紙 9章24−28節 マルコ 12章38−44節
イエスは律法学士や金持ちや偽善者や虚栄心の強い人を嘲笑します。 イエスは彼らの立派な外見のうちに、隠された悪の5つの姿をあばきます。 律法学士は、一貫性がなく、言うが行ないません。 怠け者は、他の人の肩に重荷を押し付けますが、自分は指一本でも動かすのを断ります。 虚栄心の強い人は、何時も人に目立つように行い、称賛を受けようとします。 偽善者は、神を軽んじ、長い間祈っているように見せかけます。 要するに、彼らは泥棒で、やもめの遺産を取って自分の利益としてしまいます。 主が律法学士を非難されることは、残念ながらとても一般的なことで、またとても人間固有のことなので、私達一人一人が何か自分に当てはまるものを見つけます。
見せかけの人がいれば、真実に行なう人もいます。 第一の朗読の中で、サレプタのやもめは、生きるために残っているものすべてを確かに、預言者エリヤに差し出しました。 反対に第二朗読では、大祭司は「自分のものでない血を携えて」(ヘブライ9章25節)なにかを神に捧げようとしたようです。 最後に、福音は私達に、見せかけのものと、本当のものとを示しています。 神殿の入り口の、一つの広間には13の木の献金箱が置かれていて、信徒達は自分の捧げ物を礼拝とレビ人の維持のためにそこにおきました。 金持ちはこれ見よがしのやり方でそれをしました。 事実、彼らは小銭が立てる音を通りがかりの人達に印象付けようと、沢山の小銭を置いたのです。 たとえあるお金持ちが本当に高額のものを与えようとしていても、(神殿では、彼らのためには、特別にラッパを鳴らしました)実際には、彼らの余分なものの、ほんの少ししか与えませんでした。
福音のやもめは見せかけのふりはしません。 彼女が分かち合うのは、自分の命です。 というのは彼女は自分が生きるのに必要なものを全部与えるからです。 サレプタのやもめと福音のやもめは、二人とも、「多くの人から罪を取り除くために」ご自分の命を与えながら、自分自身を捧げられるキリストの象徴です。 イエスは決してファリサイ人や律法学士のように、これ見よがしの印をもたらすことはありませんでした。 裸で十字架に釘付けられ、自慢でもなければ、見せかけでもない完全な愛の本当の印として、永遠にとどまられるでしょう。
ご自分の民を救うために、神はモーセの燃える柴の中で自己の存在を示されました。 燃え尽きない光と熱を与えるこの柴は(出エ3章3節)、サレプタのやもめの油と小麦粉の予示です。 決して尽きる事のないこれらのものは、それを食べる人々の命を救うでしょう。(列王上17章16節) このように神の愛は涸れる事のない恵です。 神の愛は、終わりなく完全に自分を捧げながら、すべてにおよび、救い、私たちの命を保つ事を止めません。
愛すること、それは行なう事で、また惜しみなく与えることです。 サレプタのやもめは、預言者エリヤに、小麦粉の最後の一握りまで与えました。 神殿のやもめは、自分の最後の一円まで与えました。 イエスはご自分の御血の最後の一滴まで与えました。 皆、偉大な英知の証です。 神の盲目的な愛を告げる英知です。 つまり「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17章33節)と。
イエスは心の底をご覧になり、私達の行いや態度の背後にあるものを識別されます。 イエスは私達のうちで、真実と偽りを別けられます。 それは私たちを裁くためではなく、成長させ、取り巻く人達の目ではなく、神の眼差しのもとで生きさせるためです。 キリストの模範に従って、私達がしたり、言ったりする事は何でも、愛と自己犠牲の導きに任せましょう。 アーメン。
年間第33主日 B 2009年11月15日
ダニエル書 2章1−3節 ヘブライ人への手紙 10章11−14、18節 マルコ 13章24−32節
始めに神は大きな光るものを創られました。 「神は日を照らすために太陽を、夜を輝かすために月と星を作られ、これを見て、良しとされました」(創世記1章16,17節参照) 空の美しさを前にして、人もまた驚嘆し、その喜びを神に歌いました。 「神の慈しみは永遠」(詩篇136)と。 しかし、今日私達は、イエスが「大変な苦難の後」(24節)この地上の美しさすべては消え去るだろうと言われるのを、聞きます。
エルサレムの神殿は、建設中でした。 40年後にしか出来上がりません。 出来上がったのはローマ兵による破壊の7年前の64年です。使徒たちは現在の栄光に目を釘付けにします。 「なんと素晴しい石、なんと素晴しい建物でしょう」(13章1節)と言います。 イエスは目に見える世界の脆さについて教えるために、きっかけを掴みます。 イエスは大規模な宇宙的大変動について語ります。 異邦人は太陽、月、星などが宇宙万物を支配する神々であると考えていました。 そこでこの時代のユダヤ人の心情では、太陽や月や星などが落ちる事は、偶像に対する唯一の神の決定的な勝利を告げるものでした。 このことは、私達が「世の終わり」と呼んでいるものとは、何の関係もありません。 イエスはただ預言者イザヤが約束した「新しい世界」の誕生を告げています。(イザヤ65章17節と66章22節)
イエスの教えを理解させるために、マルコはローマ人の読者たちが知っている象徴を使います。 彼は苦難と暗黒の神秘を通して、創世記のような新しい混沌から 新しい創造が浮かび上がってくると教えています。 マルコは聖書から引き出された数々のイメージを度々使います。 例えば、天の雲に乗ってやってくる「人の子」のイメージ(ダニエル7章13,14節)はいつもイエスの受難と死を叙述するために使われます。 だから、マルコはこの破壊の叙述を、キリストの再臨で、わざわざ終わるのです。 暗黒の勝利者イエスは、夜のある時に帰って来るでしょう。 「だから目を覚ましていなさい。 いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か,夜中か、鶏がなく頃か、明け方か、あなたがたは知らないからである。」(13章35節)と書かれています。 マルコはキリストの再臨を復活の朝の出来事と比較しています。
マルコの教えはネロ皇帝の迫害の時に起草され、ローマの初代教会に与えられましたが、その後、すべての時代の人に伝えられています。 主が帰ってこられるのだから、私達を動揺させたり、誤らせたりしないように、勇気を持ち続け、忠実でいるようにと、マルコは私達を勇気付けます。 「マラナタ! 主、イエスよ、来て下さい」と初代教会のキリスト者たちは、信頼を持って歌いました。(Tコリント16章22節と黙示録22章20節)
これこそ私達の信仰の叫びでもあります。 「私達の希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」(主の祈りの後の副文) イエスの弟子である私達は何と幸せな事でしょう! 私達は宇宙的な大災害を待っているのではありませんが、栄光の内のイエスの再臨の祝いを大きな喜びを持って待っています。 ですから「頭を上げなさい」(ルカ21章28節) そして私達の顔が注意深い期待と信頼を反映します様に! 私達の希望はゆるぎません、というのは、キリストの再臨が私達みなを、永遠に神ご自身の命と聖性の内に、導入されると信じ、宣言するからです。 ア−メン。
であるキリストの祭日 B年 2009年11月22日
ダニエル書 7章13,14節 黙示録 1章5−8節 ヨハネ 18章33−37節
ダニエル書や、ヨハネの黙示録や、またその福音は、キリストの本当の面影を私達に見せようと努めています。 ダニエルは歴史の最後のページを叙述しています。 人の子、つまり栄光のキリストは、自分の宇宙的権能を神から受けるために、天の雲に乗ってこられると・・・。キリストは 永遠に神の聖性のうちに創造を再び導入しながら、その完成を実現しています。
黙示録は宇宙の王であるキリストを賛美する王的な典礼に私達を招いています。 イエスは「死者の中から最初に復活された方」です。 また彼はアルファであり、オメガであって、最初であり、終わりである方です。 神のみ言葉としてイエスは、見えるものも、見えないものも、存在するもの全てを無から出されました。 宇宙の王として、御父である神のために、私達を「司祭たちの王国」としながら、自分の王的司祭職に参加させます。 その時以来、「その国で、罪と死の腐敗から解放された宇宙万物とともに、主キリストによって、神の栄光をたたえることが出来ますように、主キリストを通して、神は全てのよいものを世にお与えになります。」(ミサ第4奉献文)
福音書はヨハネとダニエルの示現を、私達の日常生活の、度々厳しくて耐え難い背景と関連して位置づけています。 栄光のキリストは同時に辱められたキリストであり、人間の我儘や暴力に引き渡されました。 ここに向かい合って二人の人がいます。 一人は強い権力があり、他の一人は縛られて、あらゆる点で無力です。 ピラトは当時の最も強い帝国を代表しており、当時の20ほどの国を支配しています。 しかし驚くべき事は、イエスが被疑者でありながら、裁判の間中、自分の審判者に尋問することです。 イエスはピラトが見解を明らかにし、審判を主張する前に、よく反省するのを手伝おうと、ピラトを対話に誘います。
「あなたは王か?」とピラトは訊ねます。 ヘロデ王の友であり、皇帝の代理者であるピラトは、王がどんなものであるかをよく知っています。 民の指導者によって、縛られ、死に宣告されて、彼のところへ連れてこられた不思議な囚人とは何も共通するものがありません。 イエスの答えによって不審に思ったピラトは、新たに、「それではあなたは王ですか?」とくどく言い、訊ねます。 しかしピラトは権力を持つ人です。 この世のものでない王権を理解できるでしょうか? しかし実際イエスは王です。 しかしこの王は、奴隷のように使徒たちの足を洗い、食卓で給仕をする王です。 この王は罪人と共に食事を取り、病人を癒す王です。 イエスは自分が逮捕されるときに、力による解決を拒否する王です。 何故なら、彼は真理を証しするために来られたからです。 そして真理は武力によって押し付けられるものではありません。 ピラトの前で縛られて暫く後に、その腕は十字架の上に広げられていたイエスのように、真理はありのままの自分を引き渡す事です。
ピラトは解かりませんでした。 イエスに対して注がれた非難の誤りを正しくないと感じています。 しかし自分の権力を失うのを恐れて公衆の考えの圧力に負けます。 疑いもなく、私達もまた、キリストの王権についてよく解かりません。 宇宙の王、キリストのこの偉大な祭日に、イエスの冠はいばらの冠であり、彼の王杖はアシ(葦)であって、彼の即位のケープは鞭打ちによって深い傷跡を残したマントで、イエスに与えられた玉座は、木の十字架でしかありませんでした。 しかしこれらの印はすべて私達のための、神の大きな愛を啓示するものです。 ですからこれらをよく見つめましょう。 そして祈りと感謝をこめて、この王国の神秘を少しでもよく解かるように努力しましょう。 何故なら、私達はキリストと共にこの国を治めるように呼ばれているからです。 ア−メン。
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